ネイマールは先日、フランスに帰国する前にジーコのもとを訪ね、ユーチューブチャンネル「Canal Zico 10」に出演した。番組でのインタビューのもようを紹介する。

ブラジルワールドカップでは怪我で退場になって、今回は怪我後にワールドカップに出場することになるね。

そうなんです。

大会前の怪我だったのはまだよかったよね。手術は名医のホドリゴ・ラズマールが担当したけど、調子はどう? ブラジルのファンに対して何か伝えておくことはある?

調子はいいですよ、おかげさまで。もうちゃんと歩いているし、でもいつものように復帰するにおいて恐怖はあります。だからワールドカップに出るにはその恐怖にできるだけ早く打ち勝たないといけないですね。

そうだろうね。頭に怪我の瞬間が思い浮かぶからね。でもちゃんと練習して体を動かしていたら、自信をもってプレーできるはずだよ。
さてPSG(パリサンジェルマン)は、レアルと並んでチャンピオンズリーグではベストチームだったよね。レアルもすごい選手がいるけど、PSGも十分に優勝するに相応しいチームだった。

僕もそう思います。

でも再び、ここぞというときに君は怪我で欠場することになったね。

僕もPSGは優勝する実力はあったと思います。

監督には試合で温存する、といったことは言われなかったの? 試合ではすごいいいプレーをしてたのに突然のアクシデントで怪我をしたよね。

本当は次の試合で温存される予定だったんです。でもあの試合は大切な試合だったから。フランスで二番目に強いチームだったので。
リーガ、カップ戦、チャンピオンズリーグと続いて、本当は次の試合で休むはずだったんですけどね。
だけど、残念ながら怪我しちゃって。おそらく今年が一番試合に出なかったシーズンだったんじゃないかな。
ここで話はワールドカップブラジル大会にさかのぼる。

ブラジルワールドカップは優勝経験のあるフェリッピ・スコラリ監督とパレイラコーチがチームを率いたけど、母国で開催されたことで期待は大きかったよね。

国民の期待が大きくなったのはコンフェデレーションズカップで優勝したのが原因だったと思います。

コンフェデレーションズカップはスペインにいい試合をして勝ったもんね。(ブラジルは決勝のスペイン戦で3対0で勝利した)

そうですね。それも当時のスペインはワールドカップ王者でしたからね。

コメンテイターとしての自分の意見だけど、ブラジルワールドカップはレギュラー選手の中にあまりいいプレーをしていなかった選手もいたんだよね。君だって右サイドでプレーしてたでしょ?
いい選手はどのポジションでやってもいいプレーをするんだけど、あのポジションは相応しくなかったよね。
クラブではあるポジションでプレーして、代表ではまた違うポジションでやるっていうのは全くプレーが変わってくるよね。それにあのときは責任が全て君に押し付けられていたし。

そうですね。ブラジル代表の10番を背負うことは勝ったときは最高だけど、負けたときは責任が全部自分に来るから。一人で責任を負うことは不可能ですよ。
でもチームメイトがいるし、みんながすごく助けてくれました。ワールドカップでは怪我をして欠場することになりましたが。

あの(コロンビアのスニガの)プレーについてはどう思う? ひどいプレーだったよね。

怪我をして退場しなければならなくなったという意味ではひどいプレーでした。僕にとってはあれはサッカーの普通のプレーだとは思えません。

私にとっても普通のプレーではなかったね。不必要なプレーだった。

もしファウルがしたかったら相手を掴んで抑えればいいだけですよね。僕はファウルのときブラジル側の陣内にいたんですよ。

試合中、ファウルが起こる前に何か因縁があったとか?

ないんですよ。口論になったわけでもないし、ただの彼のおかしいマークの仕方のせいでしょうね。それにコロンビアはブラジルとライバルなわけでもないし。
だけどあの試合の後から少しライバル意識が芽生えましたけどね。あの後もコロンビアとは何度か戦いましたが、激しくなりましたし。

その後、リオ五輪が開催され、君は期待に応えてリーダシップを発揮したね。でも序盤は結果が出なくて大変だったよね。(ブラジルは五輪の予選グループで南アフリカ、イラクといった格下相手に引き分けていた)

そうそう。穴があったら隠れたかったぐらいです。何をすればいいか分からなかったし、すごく怒っていました。
チームのメンバーは更衣室からホテルまで誰も一言も喋りもしなかったんです。それで僕は食事をして、すぐに自分の部屋に戻りました。自分でもあんな結果は認めたくなかった。
そんなときに僕の部屋にレナト・アウグストがやってきたんです。そのとき僕は部屋で明かりを暗くして映画を見ていて、誰とも話したくなかった。一人にしてくれって感じで。
でもレナト・アウグストが部屋を覗きにきて、「俺の分の穴があったら教えてくれよ。俺も隠れたいから」って言ってきたんです。それを聞いて笑ってしまって。
それで二人で話し出して、自分のたちのプレーを変えるにはどうしたらいいかって。なんで左にばかり開いてプレーしてるのかとか、どうしたらいいのかって戦術的なことも話したんです。
翌日になってロジェリオ・ミカーレ監督とも話して、自分にプレスが集中してサイドに開いてばかりでプレーしているせいでボールが届かないから、もっと中でプレーしたほうがいいって言ったら監督もちょうど同じことを考えてたって。
それで戦術を180度変えたんです。チアゴ・マイアが出場停止だったんで、ルアンが代わりに入って、ガブリエル・ジェススが右サイドで、ガブリエルが左サイド、それで僕が真ん中でプレーすることになったんです。
僕がルアンをカバーする形でプレーすることになったのはルアンがポジションに関わらず動き回る選手だから。ルアンが左に行けば僕が右をカバーするっていう戦略でした。

だから三人が一緒にプレーすると息がぴったりなんだね。
ここで話題はネイマールの少年時代に戻る。

みんな今のことばかりを話して、昔のことは忘れがちになるけど、君のキャリアのスタートってどんなだったの?

プロでプレーするようになったのは17歳のときで、プロチームに昇進したのは16歳でした。

でもその前にフットサルをやっていたよね。フットサルはどのくらいやってたの?

フットサルは6歳から13歳までです。(詳しいプロフィールはこちら)

フットサルとサッカーは同時にやってたの?

いや。10歳まではフットサルしかやっていなくて、10歳から14歳まで両方プレーするようになりました。フットサルにするか、サッカーにするかどうするんだいって聞かれてそのときサッカーに転向することを決断したんです。

W杯優勝経験者の元代表選手が君のプレーを見て、サントスにスカウトしたっていうのは本当の話?

ジョゼ・エリ・デ・ミランダとアントニオ・リマ(共に元ブラジル代表)でした。アベル・ヴェロニコもいましたね。三人がサントスに僕を連れて行ったんです。

サントスは元プロ選手による若手育成のセレクションをしっかりやっているよね。

そうですね。でもあの当時は僕のカテゴリーはサントスにはなかったんです。10歳のカテゴリーがなく、11歳も12歳もなかった。
でもサントスに入団させたかった子供が3人もいたから、そのためにカテゴリーを作ったんです。
90年生まれはセルジーニョ、91年生まれはアラン・パトリッキ、92年生まれが僕でした。

ジュニオール(ユース)のカテゴリーではプレーしたの? (すぐにプロになったから)してないか。

ジュニオールではコパ・サンパウロでプレーしましたよ。

何歳だった?

16歳です。それでコパ・サンパウロの後にプロに昇格したんです。

リベルタドーレスでプレーしたのは何歳のとき?

リベルタドーレスで優勝したのは19歳です。17歳でプロになって18歳でリベルタドーレスの出場権を得て、19歳で優勝したんです

リベルタドーレスではどの試合が一番厳しかった?

ファーストステージが難しかったですね。3対0で勝ったのはいいけど、僕が退場になってエラーノもエ・エドゥアルドも退場になってしまってサントスはレギュラー3人抜きでアウェイの次の試合を戦わなければならなくなったんです。そのときは狂ったように応援しましたよ。

2010年、君は18歳だったよね。あのときはサントスにガンソがいて、二人はゴールを決めたらいつもダンスを踊ってバレリーナみたいだった。

あのときはよくみんなで一緒に踊っていましたね。

二人がダンスを踊ってる動画があるよ。今日の会話とスタッフとの関係性によってはその動画を流してもいいけど、どうなるかなぁ(笑)。

いやあ頼むから、みんなそれは勘弁してください。

2010年ワールドカップのときブラジル国民から代表でプレーするように期待されていたと思う?

僕自身代表でプレーすることは願っていましたね。当時、僕ら(ネイマールとガンソ)の名前はよく挙がるようになっていたし。

私も君の名前は出していたよ。(ジーコの昔の映像が流れる)

代表に呼ばれることはすごく楽しみだったし、期待は膨らむ一方でした。でもプレーするのは僕よりもガンソのほうが相応しかったと思う。僕はそんなに準備ができていなかった。
ブラジル代表としてワールドカップに出ることはすごく責任重大だし、当時の僕にとってはまだあくまでも代表は新しい経験という感じだった。(*ネイマールは2010年W杯後に代表に初召集された)

いや、君は選手としてもすごくいい時期にいたよ。君とガンソの二人のことはまだ世界的には誰も知らなかった。そんなときに代表のベンチにいるだけでも重要なことだと思う。プレーをしたら試合の流れを変えることだってできるからね。
ブラジルが2010年ワールドカップで(準々決勝で)オランダに負けていたときもベンチを見ても誰も交代して流れを変えることができる選手はいなかったんだ。
私も1974年のワールドカップのときにはみんなが私のことを話すようになっていたから代表に呼ばれることを期待していたんだけど、そうならなかったからね。
ここで話はバルサへの移籍に変わる。

君はリベルタドーレスで優勝し、代表にも呼ばれるようになってからバルサに移籍したね。

そうですね。バルセロナに行くことを決めて自分の憧れのチームに行きました。

向こうではいい時間を過ごせたでしょ?

すごくいい時間でした。バルセロナは僕のことをとてもよく受け入れてくれましたし、チームメイトもよくしてくれました。

すごいチームだもんね。君はバルデス、プジョル、イニエスタ、シャビなんかとプレーすることになったけど。

僕はラッキーというか、すごく幸せな人間ですね。彼らのような選手たちとプレーできるようになったんですから。メッシやイニエスタとプレーした思い出は友達にもいまだに話しています。

イニエスタがワールドカップで優勝した年にバロンドールをもらえなかったのは不公平だったなぁ。(その年はメッシが受賞)

難しいところですね。あの年はメッシも70ゴールくらい決めてすごいプレーをしていましたからね。

でもワールドカップで優勝したのイニエスタだからね。そのほうが重要だと思うけど。

確かに重要ですね。

バルサで君たちは最高のトリオを形成して、歴史に名前を刻んだね。

メッシがすでにすごいプレーをしていましたが、その後スアレスが移籍してきて、スアレスが僕ら三人が打ち解けるきっかけになったんです。
クラブにとっても僕とメッシの関係にとってもスアレスは重要で、三人は練習でも試合でも離れられないほどの仲になりました。

何も話す必要はないっていう感じだよね。目を見ればお互いが望んでいることが分かるかのような。

そうですね。お互いを見ただけでやるべきことが分かりました。

スアレスのプレーはちゃんと見たことがなくて、初めて見たのはバルサ対ジュベントスとの試合だったんだ。あの試合で彼に対する考えが完全に変わったよ。

彼は怪物です。すごく賢いですよ。たまに何かやろうとしてミスすることもあるけどね。

だってスアレスには君らのようなテクニックはないからね。同じものを要求したら可哀相だよ。

練習のときからメッシと一緒にボールを使ってテクニックで遊んでいたりすると、スアレスができないからって怒るんです。
試合のときにも僕がドリブルでディフェンスを交わし、メッシにパスしたらメッシも同じようにドリブルで翻弄してスアレスにボールを出したんです。そしたらスアレスまで真似して同じことをしようとして、みんなで笑ってしまったんです。
すごく仲が良かったから、誰かがミスしたら僕らは笑っていました。スアレスが控え室でこう言ったんです。「君たちがドリブルをしてたから僕だってやろうと思ったんだよ」って。
僕らの友情はとても美しいものでした。バルセロナのことや二人のことは懐かしく思います。あの喜び、あの友情が懐かしいです。

それに結果も出したしね。

そうですね。それが一番大切なことです。

その後、パリサンジェルマンに行ったら今度は他のトリオ(ネイマール、エムバペ、カバーニ)になったね。あの少年(エムバペ)はすごい選手だよね。彼とワールドカップで対戦するのことになったらどうしようかね。

ブラジル代表のカジミーロにはもう言いましたよ。エムバペを削ってくれって。それにしても彼(エムバペ)は怪物ですよ。
彼の年代では世界一だと思います。ガブリエル・ジェススが一歳年上で、彼ら二人は競い合ってますね。でもエムバペはブラジルにとって驚異になるはずです。